Call

「モクバ君ッ」
海馬Co.本社ビルのエントランスを歩いていた社長の弟で副社長の海馬モクバを、渡りに船とばかりに慌てて捕まえる。
「何?」
端から見れば、どこからどう見ても小学生のモクバと高校生の御伽は、忙しなく動く社内の雰囲気の中で異色であるが、本人たちはもとより、まわりの社員たちも全く気にしていなかった。なにせ、この会社の社長自体が高校生であったし、また彼の弟への溺愛っぷりは社員の中であまりにも有名な話だった。
「あのさ、海馬君知らない?」
モクバに向かって、携帯繋がらないんだよねーといたって普通に言う御伽に、モクバは暫し御伽をじっと見つめてからハァーと呆れのため息を吐いた。それを見て、御伽が何?と首を傾げる。
「海馬ならここにいるけど?」
海馬瀬人の弟、海馬モクバ。確かに、‘海馬君‘である。
言われて御伽はああ!と目を丸くして大げさに反応した。
「そういえばそうだよね」
御伽の中で、海馬モクバはモクバ、海馬瀬人は海馬としっかり分けられていることに、モクバはまた溜め息を吐いた。彼の中に、モクバは海馬であり、海馬は瀬人であるという認識は皆無なのだろうかとありえない心配にまで至ってしまう。
「お前なぁ。兄様のコイビトなんだろ?お前、兄様の名前覚えてる?」
「覚えてるよ、いくらなんでも」
苦笑しながら御伽は瀬人でしょ?と答えた。
「そうそう。兄様なら今仮眠室で仮眠とってるはずだから、行ってたまには名前ぐらい呼んでやれば?」
「うん、ありがと」
苦い笑みを浮かべ少々お節介気味なモクバのセリフにそう返し、彼と別れてエレベーターの前で止まった。
たまには…っていうか、初めてになるだろうけどね…。
思いながらエレベーターのボタンを押した。

コンコン、と一応控えめなノックをして、ドアを静かに開けた。
仮眠室の簡素なベッドが盛り上がっている。御伽が完全に部屋の中に入り、ドアを閉めてしまっても全く動かない。気心知れない者が入ってくると、すぐに飛び起きる瀬人が、少しも起きる気配を見せないことに少し上機嫌になりながら、御伽は瀬人の方へ行く。
顔のところまできて、屈んだ。じっと、端正な顔立ちをしている瀬人の顔を見る。彼の寝顔は、嫌いではなかった。瞳を閉じても尚鋭利なところや、それでも若干幼さが増すところなど、どちらかといえば好きの部類に入る。何より、コイビトであるわけだし。
けれども、御伽はやはり瞳を閉じているよりは、開いてこちらを見ている方が好きだった。起きないかな、と思う。そうしたら御伽が顔面にいることで滅多に見れない、驚いた顔が見れるだろう。
どうせなら、「おはよう、瀬人」とか笑顔で言ってみようかなー。
そりゃあもう、ハートマークが語尾についちゃうような勢いで。
瀬人は寝起きでも割と意識がはっきりしている方だから、きっと御伽のしたことを寝ぼけてうやむやにはできないだろう。そうなると、一体瀬人はどんな顔をするのだろうか。
鳩が豆鉄砲くらたような顔?
目をまんまるに丸くした瀬人が脳裏に浮かんできて、御伽の胸がどきんと高鳴った。
「…やろう」
思わず拳をつくりながら、御伽は真剣な顔をして決意を固める。
まだ瀬人は起きそうにない。相変わらず、身じろぎ一つせず死んだように眠っている。
その顔を見ながら、起きてすぐはさすがに無理だろうから、ニ三度瞬きしたところで実行しよ。と、より計画を完璧なものにして、御伽は瀬人の起床を待つ。
早く、早く。
楽しみでしょうがない。
そうしてどきどきわくわくしながら見つめること約二分半。
耐え切れなくて、もういい加減揺り起こそうかと思ったところで、漸く瀬人が身じろいだ。
起きるかな?
瀬人が気だるげな声をあげる。
お、と御伽の顔が期待に染まった。
「…」
ゆっくりと瞼が開き、蒼い目が見えた。けれども、それは一瞬で、すぐに瞼は閉じられ、その後また開いてパチパチと瞬きを繰り返した。
計画通り、と御伽は高揚した気分を落ち着かせるように心の中で呟いた。そして、まだ起き抜けの瀬人の瞳をしっかりと見据えて用意していたセリフを紡ぎだす。
「おはよう、…せ、…せ…」
「…なんだ」
寝起きの、少々不機嫌のような掠れた声で瀬人が御伽の不審な態度を問う。御伽といえば、当初の予定はどこへやらで、ベッドの端に手を置き項垂れていた。
おはよう、までは完璧なスマイルを保っていたのに。と、御伽は悔しそうに心内で呟く。瀬人のところになると急に気恥ずかしくなって、声が小さくなった。それにあわせて視線も下へと動いてしまい、最後のトなど口の中で転がす程度にとどまってしまって、結果、全くの不戦敗だ。
名前を呼ぶところが最大のアタックポイントだったのに…!
うう、と唸る御伽に、なおも注がれる瀬人の疑問の視線。
「…なんでもない…。おはよう、海馬君」
ところで、仕事の話があるんだけどさ、と顔を上げ当初の目的を持ち出せば、あっさり瀬人の興味はそちらにうつった。仕事の話を持ち出せば些細なことは誤魔化せるのだから、この男はなんて楽なんだろう。
ああ、それにしても。
モクバのため息が聞こえてくる。付き合って一年は経たないものの幾月。決して短い時間じゃない。ケンカはするけれど、今現在不仲じゃない。それなのに。それなのに。

未だに、彼の名前一つ呼べないだなんて。

「…なさけな…」

一つ、彼に聞こえないように呟いた。