キッチン
「おらっ、早くいけっ」
田島を追い出すように花井はがなった。それでも田島は気を悪くすることなく、にししと笑みを浮かべていってきまーすと元気良く出て行く。
ようやくバタンとドアが閉まった。閉まってから花井は、ああもう…と脱力する。いい加減、どちらかが諦めれば朝からこんなに体力をつかうことないのに、とドアが閉まって静かになるたび思う。思うけれど、実際彼を見送るために玄関に立つとそんなことはすっかりと忘れてしまって、いってきますのキスの攻防戦になる。どうせ負けるのに。そこで花井は、はぁと一つため息を吐いた。
そしてくるりと身体を反転させる。テーブルにはまだ朝食の抜け殻が残っていた。かちゃりかちゃりと音を立てながら陶器でできた無地の皿をシンクに運ぶ。水を出し、スポンジを手に取った。
いい加減、食器洗い機がほしいなぁと思う。
そろそろ冬だし。水道代は安くなるっていうし。あ、でも電気代がかかるようになるんだよなぁ…。いや、冬場、お湯分のガス代も浮くから結局安くなるか?…でも七万円…。どうしたもんかなぁ、うーんと眉間に皺を寄せる。三橋にも聞いてみっか。
隣の阿部・三橋宅には立派な食器洗い機がある。なので三橋の洗い物はポチっとボタンを一つ押して終わりだ。…いや、終わりのはずである。
ぴーんぽーん。
玄関のチャイムが鳴った。聞こえるわけがないのに、ついついはーいと応えながら花井は振り返る。紺のエプロンはそのまま玄関に走り、どちら様ですかと問うこともなくチェーンも鍵もかかっていないドアを開けた。
「…お、おは、よう…花井、くん」
「はよ…」
こいつもこいつで、よくもまぁ毎日いやになんねぇよなぁと感心を通して呆れてくる。しかも、だ。三橋の洗いものはボタン一つ、ピッで終わりのはずなのに、彼はわざわざ赤の他人の洗いものを手伝ってくれるのだ。三橋らしいといえば実に三橋らしいのだが。
「あ、花井くんはコロッケにしたんだ」
「あ?ああ」
更に僅かに残っていたコロモを見て、三橋が驚いたように言った。三橋は、昨日の特売のパンをきっとそのままトーストにしたのだろう。
「田島は、どっちかっつーと和食派だからな」
ご飯がないとダメなのだ。あのじいちゃんっこめ、と不満を口にする。俺はパンが食いたい。
「花井くんが作るなら、洋食でも大丈夫だと思うけど」
花井の腕と、田島の愛を知る三橋が言う。けれども、花井はハァーっと一つため息を吐いた。
「まぁ、そりゃそーなんだよ。文句いわねぇし、うまいうまいって食べんだけど、なんかなーぁ顔が違うんだよな」
たまにならいいようだが、毎日食べるなら和食がいい。そんな顔をするから。
本人無自覚の僅かな頬の赤らみの満足と不満が入り混じった顔に、三橋が、はにゃりと顔を崩した。
「なんだよ」
なんでもない、と三橋が首を振る。彼は何一つ言わないけれど、なんとなく照れてむっとして反撃にのりだした。
「お前、昨日は何にしたんだ?一昨日は焼き魚でさ」
暗に毎日魚を出しているのか、と花井が問う。フフンと小ばかにしたように笑う顔に、カアアと三橋の顔が赤くなる。あ、とかう、とか口をパクパクさせる三橋を見て、漸く気が晴れた。
あの目がだめなんだ、としゃくりあげていた三橋は、記憶に新しい。てかてか光る鱗、それが剥がれて手についたりもする。それもイヤだと三橋は涙ぐんだけれど、阿部は魚が好きだった。だから、三橋は涙ぐんでもしゃくりあげても包丁を手放さなかった。
「お、おれ…も、さか、な…好き、だっ、から!」
別に阿部くんだけのためじゃない…よ。
ごにょごにょごにょ…と消え入るように呟いて三橋は下を向いた。
あーハイハイ、と花井は上を向く。阿部君だけのためじゃない。俺のためでもある。でも阿部君のためであることは変らない。
「あー、そうそう、そういや今日は秋刀魚が安いんだっけな」
「ほんと?」
嬉しそうに三橋が顔を上げる。海なし県では魚は肉より断然高くて、どうにもその購入には気が引けてしまう。ついつい味もいまいちだし、と遠のいてしまうのだ。三橋は必ず買うけれども。
「確かなー。あの遠いとこなんだけど」
でも、行くだろ?と三橋を見た。こくと三橋は頷く。
「でも、ごめん、ね」
免許を持っていない三橋は、俺に申し訳なさそうに謝った。
「いいっていいって。俺もそろそろ魚食べたかったし」
秋って言えば秋刀魚だし。
「じゃ、今日はそこでなー」
かちゃり、と小さな音をさせて花井は最後の皿を食器棚に収めた。
主夫の一日はまだ始まったばかりである。
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