アフター
タレ目はご機嫌だった。
それはもう、ご機嫌だった。
彼の顔は、あの田島がいたら羨ましいを通り越して、お前こええよ!と叫びだしたくなるほどで、普段三橋をびびらせてびびらせて泣かせている冷静沈着、角度によっては常に怒り顔のその顔がそれはもう緩みに緩みきっていて、その場にいた全員に早期の退席を遠回しに求められる顔だった。
彼はその顔のまま駅に向かい、電車に乗り、二駅乗ってから降りて、自宅までの道を歩き始めた。
にこにことまだ明るい道を歩く。もう秋の中頃だというのに、どうだこの明るさ。フフン、と阿部は得意げに笑った。この時間帯に家に帰れるのは、基本的に不可能。年に一度、あるかないかだ。特に、ここ一週間は残業続きの日々だった。疲労とストレス。それとも今日でオサラバだが。
何より、三橋が足りなかった。
うんうん、と阿部は自宅マンションのエントランスのロックを解除しながら思う。
真っ暗な空の下、寒さに身を凍えさせながら帰宅すれば、確かに彼は温かい光とともに出迎えてくれたが、疲れているだろうと一時間かそこらでその電気を消してしまうのだ。朝だって彼はギリギリまで起こしてくれなかった。全部、自分を気遣ってのことだったのだが。
三橋が、足りない。
うんうん、と幸せボケの極地まで到達してしまったタレ目は、エレベーターを待ちながら今日から十分楽しもうと期待に胸をはずませる。
田島より、早く帰れたしな。文句の出所がねぇ。
フフンと、また阿部は得意げに笑う。あの悔しげな顔。同僚の彼も、共に残業続きだったがそれは今日も変らないようで自分が今日は定時より早い帰宅だと知ると地団太を踏んでいた。
なんでお前だけ!ずっこい!
あの集中力に負けて、いつも叫ぶ側にまわってしまう阿部は、叫ばれる側の優越感を存分に味わう。
羨ましいだろ、田島。
俺はこんな時間から三橋と一緒だ…!
「フッ」
阿部はエレベーターで一人笑った。
いつもより長く感じられる廊下。本当ならば走りきってそのままドアを勢いよく開けたいが、時間はたっぷりあるのだから急がなくてもいいのだと阿部は逸る心を抑える。
いよいよドアの前に辿り着いて、阿部の顔はもはや目もあてられないほどの緩みっぷりだった。
三橋、三橋。今帰ったぞ…!
ドアノブに手をかけて、ぐっと下に押し、さらに引く。
ガンッ…!
引っ張った力の分が、そのまま衝突の音になった。
期待していなかった手ごたえ。想像もしていなかった悪い予感。それよりなにより悲しい事実。
も、もしかして、いな、い…?
いやいやいや。まさかまさか。
危ないから鍵をかけているだけだ。うんそうだ。と思い直す。急いで鍵を取り出し、がちゃりと開ければ、暗い玄関。冷えた、人気の感じられない空気。
「…三橋…!」
どうした何があった一体なんなんだ。俺と三橋のワンダフルなアフターファイブ、いや今日は定時ですらないからアフターフォー。それは何処へ。バンと音を立てて鞄を投げつけ、家中を探し回る。いや、探し回る必要など本当はないのだけれど。三橋がいないことなど、ドアを開けたその瞬間から分かっていた。
「三橋…!」
それでも全室探し、見つからない彼の姿に思わず叫ぶ。
一体何処に…!
そこで、はっと頭によぎるものがあった。
もしかして、お隣(田島・花井宅)にいるのかもしれない…!
自ら放った鞄に足をとられそうになりながらも、阿部は急ぎ家を出、すぐ横の呼び鈴を押した。
「どちら様ですか?」
「阿部だ」
「阿部!?」
花井の驚いた声。続けて、おい三橋、と呼びかける声も聞こえて、ああやっぱりここにいたのかと阿部は脱力する。そうだよな、三橋が家に一人でいるわけないよな…。そんな三橋はどうにも寂しそうで見ていられない。だから、それはそれでいいのだけれど。せめて、花井がこっちにくるとか…。くぅ、と阿部は唇を噛んだ。
「ちょっと待ってろ。すぐ開けるから」
言葉はそこで終わり、すぐにドアが開かれた。
「…どうしたんだ」
本当に阿部がいる、と驚いた顔で問われる。長身の彼の後ろには驚いたような嬉しげな三橋の顔がちらちら覗いていた。
「仕事が、早く終わったんだ」
「そうか」
くるっと振り返って花井がよかったな、と三橋に声をかける。
「ウ、ウン…」
その割にはあまり嬉しそうではなく、ちょっと俯いた三橋に阿部がうん?と眉を寄せた。
「阿部、ちょっとドア頼む」
そう言って、花井は未だ前に出てこない三橋の横に並んだ。
「じゃー、三橋、またな」
ほら、と花井が三橋の背中を押す。ポンと叩かれた三橋は、ウと驚いた声をあげて心配そうに花井を見た。花井がそれに気づいて、苦笑する。それで、漸く阿部は気づいた。そうだ、田島はまだ帰ってきていないんだ。
「気にすんな」
花井が笑うけれども、気づいてしまえば、その笑顔は寂しげに見えて、三橋が前にも後ろにも進めないのがよくわかった。
はぁと、もはや癖のようなため息と呆れ顔をして、阿部は玄関に入りドアを閉めた。あ、阿部?と花井が驚いた声を出す。三橋が、安堵したようにやわらかく笑った。
放って置けるか。
全く、と心内で呟き、阿部は、花井に茶、と一言偉そうに言った。
それに花井がくしゃりと笑う。すまなそうな、嬉しそうな。
未練がないわけではないが、その花井の顔と彼の煎れるとびっきりの紅茶で帳消しにしてやる、と阿部は靴を脱ぎながら思った。
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