タバコ

テスト前で部活が休みだった。だから、真っ直ぐ帰らずに寄り道をした。確か泥門はまだ休みじゃないよな、と思いながら。けれど、着いてみたら泥門も休みで、でも練習をしていた。さすがに早めに切り上げたみたいだったけど。それで俺は、椅子に腰掛けてヒル魔の帰る準備が終わるのを待っていた。だけど、椅子に腰掛けたまま何もすることがなく、あんまりにも退屈だった。それで、なんとはなしに部屋中に視線を走らせていたら、カジノテーブルの端に珍しいものを見つけた。乱雑に脱ぎ捨てられた彼の制服。その胸ポケットには、学生にあるまじき小箱が頭を覗かせていた。ヒル魔に良く似合って、けれど決して彼が口にしないもの。今度は何をしたんだか、と桜庭は心の中で呆れのため息をつきながら緑のその上着を長い腕で引き寄せて(彼は決してそれを口にしないが、演出としてよく用いていた)、小箱の頭を長い指で掴み胸ポケットから引き出した。
桜庭は頬杖をつき、面白くなさそうに大きな手で小箱を顔面に持ってきてあらゆる角度から覗き込む。何せ学生にはそうそう見慣れたものではない。ひとしきり眺め終わると、今度は小箱から一本取り出して、また眺めた。
ヒル魔は部室の奥の方でセナと何やら話し込んでいる。二人とも真剣な顔をして、多分アメフトのことだろう。一応、敵がここにいるっていうのにね。一応だからいいのかな、と桜庭は自嘲的な笑みを浮かべながら思った。立場だけは敵。だけど、実際には敵ではない。彼らの敵になんかなりえない。よく知っている。だから、ここにいられる。桜庭はいっそう笑みを深くした。そして、出した一本のタバコを上着のポケットにしまい、小箱を彼の上着に戻した。右を向いてヒル魔たちを見やれば、何か問題でも生じたのか二人して黙りこくっていた。ちょうどいい、と桜庭はヒル魔に声をかける。
「ヒル魔、ライターない?」
「ライターァ?」
訝しげな視線を投げかけるヒル魔に桜庭は、おや?と思う。てっきり黙ってろとでも言われるかと思っていたのに。
「てめぇ、なんに使うんだ。そんなもん」
興味まで持ち始めた。予想外のヒル魔に、桜庭は面食らいながらやっぱいいと答える。
「ちょっとあったらいいなって思っただけで、別にどうしてもってわけじゃなかったしさ。邪魔して悪かったよ」
笑顔でしめて、視線を元にもどした。こんなヒル魔おかしい。アメフトの話してるのに、俺のことを構うなんて。あ、もしかしてアメフトの話じゃなかったのかな。それなら納得できる、と桜庭は思った。ヒル魔の横にいるセナが脳裏に浮かんだ。アメフトの話なら、みんな俺のことなんてどうでもよくなるもの。急に泣きたくなった。泣かないけれど。テーブルに腕を組んでのせたまま、桜庭は固まっていた。
「おい」
急に後ろから声をかけられて桜庭は身体をびくりと強張らせた。体中にやかましく心音が鳴り響く。桜庭は振り返った。
「な、何…?」
「何じゃねぇ、上着よこせ」
「あ、うん…」
言われるままに桜庭はヒル魔に上着を手渡す。ふぅとため息を吐いて漸く心臓を落ち着けた。瞳を閉じる。ああ驚いた。
「おい」
もう一度、ヒル魔の不機嫌そうな声が後ろから聞こえた。何?とまた振り返った。
「何してんだ。置いてくぞ」
置いていく?と桜庭は首をかしげた。そうこうしている間にもヒル魔は桜庭に背を向けて扉に向かって歩き出していた。手にはいつもの物騒な鞄がある。帰るんだ、と桜庭は直感的に思った。そして慌てて荷物を掴んで立ち上がる。足がもつれそうになりながらも扉を開けるヒル魔に追いついて、何とかヒル魔が扉を閉める前にドアノブを掴んだ。
「待ってよ、ヒル魔!セナ君またね!」
先を行くヒル魔に気をとられて、セナに声を張り上げただけの挨拶をした桜庭は、慌しく泥門の部室を出て行った。

「まったく!」
ヒル魔に追いついて肩を並べた桜庭の開口一番はそれだった。
「いっつも突然なんだから」
どうしたんだよもう、と桜庭は口を尖らせる。ヒル魔がめんどうくさそうに頭を掻いた。その顔が思ったより不機嫌で、桜庭はどきりとして口を閉じた。何か悪いことでも言っただろうか。
「てめぇのせいだろ」
「…俺の?」
何かしたかな、と桜庭は不安げに口の中で呟いた。何にもしてないはずだ。大人しくヒル魔とセナの話が終わるのを待っていたはずで、何一つ帰りをせかすようなことはしていないし、話を中断させるようなこともしていない。
心細げに眉を顰めていた桜庭に、ほらよ、とヒル魔は小さな長方形の物体を投げて寄越した。突然のそれを驚きながらも桜庭は何とか腕を伸ばして捕まえた。何だろう、と思って立ち止まって手を広げてみると掌の中には緑のプラスチックの安いライターがあった。
「次はもっと、直接的に気を引け」
ヒル魔はまた、前を向いて歩き始めた。桜庭の歩みは止まったままだ。
ヒル魔の言葉に、ああ、あれは気を引いているように見えたのだと桜庭は知った。ああ、とまた桜庭は泣き出しそうになった。今度は、本当に泣きたかったかもしれない。掌の中で日光を浴びてキラキラ光る緑のプラスチックがどうしようもなく憎かった。無意識に滲み出る、自分のその媚びたような態度が桜庭は酷く嫌いだった。けれど、それは無意識と意識の間でぎりぎり無意識の方にあるから、いつも制御できそうでできないのだ。
桜庭は動けなかった。それに気づいたヒル魔が振り返る。
「桜庭?」
彼が名前を呼んだ。まるで無意識に。それが嬉しくて掌にある硬い緑が悲しくて自分が嫌いでヒル魔が好きで桜庭は曖昧に笑った。